戦時下の上海で抗日スパイとなった鄭蘋如(右)と日本人の母親、木村花子(中国名鄭華君)。母親は戦後、台湾に渡った
日中戦争が勃発した1937(昭和12)年から上海の租界を舞台に抗日スパイとして任務につき、40年に25歳の若さで処刑された女性、鄭蘋如(てい・ひんにょ)が中国で改めて注目を集めている。日本への留学経験がある中国人を父に、日本人を母にもつ蘋如。戦後長らく「漢奸(かんかん)(裏切り者)」の烙印(らくいん)を押されてきたが、蘋如をモデルにした米中合作映画や中国のテレビドラマがヒット。今では「愛国者」と称(たた)えられ、上海郊外に銅像まで建てられた。
スパイとして蘋如の存在が広く知られるようになったのは、1940年1月に地元紙が報じた「丁黙邨(てい・もくそん)暗殺未遂事件」からだ。
中国の主権の及ばないフランス租界や米英の共同租界、さらに日本人居留地が広がった当時の上海は、いわばスパイ天国だった。
蘋如の父親は、重慶に移って抗日姿勢を強めていた蒋介石国民政権の高官、鄭鉞(えつ)。スパイとしての彼女の任務は、38年1月に「爾後(じご)、国民政府(蒋政権)を対手とせず」と表明した第1次近衛文麿内閣と結びつく親日派、汪兆銘(おう・ちょうめい)の勢力切り崩しとなった。
日本軍内部に人脈を築いていた蘋如は、汪の勢力を支える特務組織、通称ジェスフィールド76号のトップ丁黙邨と親密な関係に。
39年12月24日。プレゼントをせがんだ蘋如は丁と共同租界の静安寺路(現南京西路)のシベリア毛皮店に入った。そこまでは丁暗殺のシナリオ通りだった。
だが、店から出る瞬間の丁に照準を合わせていたはずの国民政府の特務、いわゆるCC団が放った刺客が狙撃に失敗。丁は車で逃げ去り、蘋如が自分の命を狙うスパイだったと知る。
逡巡した蘋如は翌40年1月に日本の上海憲兵隊に自首。懇意にしていた藤野鸞丈(らんじょう)少佐に「家族への報復が怖い…」と心情を明かしたという。蘋如の身柄は丁の組織に引き渡され、裁判らしい裁判もないままに2月中旬、上海郊外で銃殺。その過程で地元紙にリークされ、スキャンダルとして広がった。
蘋如は東京生まれだ。鄭鉞が法政大に留学中、木村花子と結婚、14年に次女として出生した。2年後には一家そろって上海に渡ったが、蘋如は花子(中国名を鄭華君と名乗った)が教えた日本語を流暢(りゅうちょう)に話した。
そんな彼女が、上海で暗殺計画に加担する存在にまでなったのはなぜなのか。
蘋如は当時の女性としては珍しく大学教育を受けていた。美貌も評判で37年に雑誌の表紙を飾る。このことが、CC団が蘋如に目を留めるきっかけになった。
ただ、上海史に詳しい東華大学(上海)の片山泰郎客員教授は「蘋如はCC団のスパイ教育は受けていない。(スパイというよりも)母親の祖国である日本に、中国大陸から手を引いてほしいという強い義憤を感じての行動だった」と考えている。
蘋如は17歳だった32年に勃発した第1次上海事変ですでに、仲間と抗日ビラを街頭で配るなど抗日活動に身を投じていた。母が日本人というだけで迫害を受けていた蘋如は逆に、抗日の意思を誰よりも強く示すことで、中国人として生きる自分を確認したのだろう。
美貌を武器にする術をどう身につけたのか。丁を落とす前には、日本が設置した東亜同文書院に赴任してきた近衛文隆(文麿の長男)にも接近して、恋愛関係にあったとされる。
CC団のスパイとなって水面下での抗日工作を始めた蘋如だが、日本側はその背後関係に気づいていた節もある。「蘋如は純粋に国を愛した女性だが、実は日中双方に利用された」(片山氏)のかもしれない。
49年に中国共産党が成立させた新中国の立場からみれば、内戦に敗れて台湾に逃れた国民政府は敵対勢力であり、そのスパイは中国への反逆者でもあった。
蘋如をめぐる史実を追った「一個女間諜」(2009年、上海辞書出版社)などの著書がある許洪新氏によると、蘋如が「烈士」として改めて評価されるようになったのは、05年9月の胡錦濤国家主席による抗日戦勝利60周年の演説から。
この年の4月、台湾の野党だった中国国民党の連戦主席(当時)が1949年の中台分断後、初めて中国大陸に足を踏み入れ、胡錦濤氏が共産党総書記の肩書で「国共トップ」会談を北京で行ったことが伏線となっている。
抗日が歴史的な共通キーワードとなる国民党と共産党の合作(協力)には、蘋如のような存在を烈士として浮かび上がらせることは好都合だった。
台湾独立を党綱領に掲げた民主進歩党が台湾の政権党だった2005年、新たな「国共合作」の包囲網ができ、蘋如は情報戦略の駒のひとつに使われた。
蘋如をモデルにした小説が07年に「ラスト、コーション(中国語タイトル「色、戒」)」として映画化され、さらに昨年は中国で「旗袍」との題名でテレビドラマ化。今年も新たに制作されるテレビドラマで登場する見通しだ。
日本人を母にもつ美貌の抗日スパイという特異な存在。漢奸ではなく愛国者とのお墨付きさえあれば、中国の大衆も堂々と飛びつく。09年には、蘋如を称えた像も上海郊外の霊園「上海福寿園」に建立された。
中国と日本の間で揺れ動いた女スパイ、蘋如は亡くなって72年を経てもなお利用され続けている。
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汪兆銘 おう・ちょうめい
1883~1944年。号は精衛。広東省生まれ。日本の法政大に官費留学。孫文の思想に共鳴し中国国民党の指導層に加わるが、蒋介石と袂(たもと)を分かち、1937年の日中戦争勃発時には対日妥協を唱えた。40年、日本の後押しを受け、南京に国民政府を樹立し主席に就任。日本の傀儡(かいらい)として、蒋介石の重慶政府に攻撃された。名古屋で病死した。
by 河崎真澄
【上海余話】誠意への応え方